大倉財閥の設立者・大倉喜八郎の経歴・人生について

怪物商人 大倉喜八郎
怪物商人 大倉喜八郎
偉人の人生

大倉喜八郎とは?

大倉喜八郎 画像

大倉喜八郎 画像

沢山の企業を作った実業家

大倉喜八郎さんを一言で表すならば「沢山の企業を作った実業家」です。このような言葉になってしまう程に、本当に多くの企業を作り、出資をしてきました。日本初の偉業もいくつも達成しており、世界的に有名なお金持ちの家「ロスチャイルド家」から招待を受けるほどに、日本屈指の実業家でした。

大蔵財閥の設立者

大倉喜八郎さんは沢山の企業を作った後、中堅財閥である大蔵財閥を設立しました。この大蔵財閥は十五大財閥にも数えられており、GHQに解体を命じられた財閥の一つです。一代で大財閥を作りあげることはもちろん容易なことではなく、大倉喜八郎さんがいかに凄い人物であったかが伺えます。

大倉喜八郎 画像

大倉喜八郎 画像

大倉喜八郎の経歴・人生

自営を営む家に生まれる

1837年、現新潟県新発田市に三男として生まれた大倉喜八郎さん。元々農村の家柄でしたが、曾祖父から商いを始めており、その家業を手伝いながら、幼い頃からしっかりと勉強をしていました。しかし、同じ塾生の親が悪さを働いてきたことにより憤慨、江戸に出ることを決意します。

丁稚奉公時代

18歳で江戸に出た大倉喜八郎さんは、まず丁稚奉公を始めます。丁稚(でっち)とは子供のことを指す言葉で、丁稚奉公は子供ですが雇ってもらうことです。鰹節のお店などで丁稚奉公をし、3年間頑張って100両を貯めた大倉喜八郎さんは、そのお金を元手に乾物店を開業します。時代によって1両の価値は違いますので100両の価値を換算するのは難しいのですが、丁稚奉公で稼ぐにはそれなりに大きな金額だったようです。

黒船との出会い

乾物店を営んでいた大倉喜八郎さんですが、黒船を見たことで鉄砲業に魅力を感じ、鉄砲のお店に見習いとして入ります。そこで4ヶ月間見習いをしてから鉄砲店を開業しました。4ヶ月というスピードで鉄砲ビジネスを把握した吸収力が伺えるエピソードですね。

速さと安さで信頼を得る

鉄砲商となった大倉喜八郎さんですが、お世話になった「小泉屋鉄砲店」が出入りしている屋敷とは商売をしませんでした。しかし、お客も無ければ資金もあまり無いスタートだった為、在庫を沢山持つことが出来ず、注文を受けては鉄砲を購入してすぐにお客さんの元へ届けるという形で営業をします。

当時不良品を平気で売りつける鉄砲商が数多くいた中で、大倉喜八郎さんの卸す鉄砲は良品が多く、かつ速く納品し、しかも安いということで信用を得ていきます。

軍の御用達に

信用を得ていった大倉喜八郎さんは、やがて官軍御用達となります。御用達(ごようたし)とは、幕府や皇室などといった特権的な場所に出入りすることが出来る商人の格式を指します。

御用達として大倉喜八郎さんは活躍を重ね、ついには下記画像「有栖川宮熾仁親王」の御用達となるほどに。西南戦争や日清・日露戦争の際も軍の御用達として活躍しました。

有栖川宮熾仁親王 画像

有栖川宮熾仁親王 画像

一気に実業家へ

鉄砲商として活躍した後、製材所や水道会社、海外貿易、洋服裁縫店を始めるなど、一気に事業を広げていきます。また、事業を広げる範囲は非常に広かったのですが、自身が設立するのみではなく出資も沢山行い、日本の近代化に大きく貢献しました。

下記画像は、大倉喜八郎さんらが設立した日本初となる電力会社「東京電燈」の証書です。こうしたインフラ事業にも沢山関わっていたのです。

東京電燈株式会社 画像

東京電燈株式会社 画像

あらゆる事業活動

土木・紡績・電力・水道・織物・製茶などなど、沢山の事業に参加、出資をしたり委員になったりしていた大倉喜八郎さん。既に大成功をしているにも関わらず、活躍っぷりは止まりません。

鉄道への出資や学校設立なども行っていき、無くなる一年前には「日清火災海上保険」を買収。現在の「あいおいニッセイ同和損保」である「大倉火災海上保険」を作りました。この時91歳であったことを考えますと、無くなる直前まで精力的に活動されていたことが伺えますよね。

現あいおいニッセイ同和損害保険

現あいおいニッセイ同和損害保険

 

92歳で死去

1928年、大倉喜八郎さんは大腸癌により92歳で死去します。大倉喜八郎さんの葬儀には1000個もの花環が贈られ、首相や国内外の実業家がズラリと参列。告別式ではなんと12000名もの方が参列したそうです。どれだけ偉大な人物として想われていたのかがよく分かりますね。

大倉喜八郎誕生碑

大倉喜八郎誕生碑

大倉喜八郎の名言

今日の経験を明日用いない者には大成功は望みがたい

大倉喜八郎さんらしい、魂の込もった名言が「今日の経験を明日用いない者には大成功は望みがたい。」です。今日学んだことを明日に生かさなければ成長は望めませんよね。しかし、多くの場合は明日の行動に生かされていなかったりすることが多いものです。ここが大倉喜八郎さんのような成功者となる方の特徴的な部分なのかもしれません。

時は金なり

大倉喜八郎さんは、「時は金なり」の名言も残しています。時間をとても大切に、有限な人生を最後まで使い切った大倉喜八郎さん。時は金なりという言葉がここまでしっくりくる方もあまりいないのではないでしょうか。

人間の本分

「楽隠居の考えをやめ、勇気を鼓し、家のため、国のために努力するこそ人間の本分なり」という名言も大倉喜八郎さんは残しています。大倉喜八郎さんは隠居をして余生を楽しむような感覚は無く、最後まで努力し続けた方でした。他にも、「他人が十時間働くなら自分は十二時間働け」という言葉も残しています。

大倉喜八郎の豆知識

日本企業初の海外進出

大倉喜八郎さんは、実は日本企業で初めて海外進出を果たした方でもあります。ロンドンに海外支店を出し、その後は釜山浦支店なども出しました。

狂歌の創作が趣味

大倉喜八郎さんは、狂歌の創作をしていたことでも有名です。大倉喜八郎さんが狂歌を作る時の名義は「大倉鶴彦」で、その狂歌集が下記画像の「鶴乃とも」です。狂歌とは社会風刺や皮肉などを盛り込んだ、ちょっと面白い短歌のことです。

大倉鶴彦狂歌集「鶴乃とも」

大倉鶴彦狂歌集「鶴乃とも」

まとめ~大倉喜八郎に学ぶ~

今回の「大倉財閥の設立者・大倉喜八郎の経歴・人生について」はいかがでしたでしょうか?

大蔵財閥を率いた日本の歴史に残る実業家・大倉喜八郎さんに学べることは多々あるかと思いますが、特徴的なのは「努力と勇気の大切さ」ではないでしょうか。大倉喜八郎さんは幼い頃から努力を重ね、勇気を持ってあらゆることに取り組んできた方です。全てが上手くいくとは限らない中で大きな決断を沢山してきたことから、心の強さが伺えますよね。勇気・努力が必要な時は大倉喜八郎さんを是非思い出してみましょう!