浅野財閥の創設者・浅野総一郎の経歴・人生について

セメント王 浅野総一郎
セメント王 浅野総一郎
偉人の人生

浅野総一郎とは?

浅野総一郎は嘉永元年から昭和にかけて活躍した実業家です。その功績は高く、一代で浅野財閥を築きました。何度困難があっても立ち上がり、七転び八起きならぬ九転び十起きをした方です。その生き様には学ぶところが沢山あり、とても興味深い経歴を持っています。

浅野総一郎の経歴・人生

浅野総一郎の生まれ

浅野総一郎は富山県氷見市にて1848年に生まれました。医者の長男として生まれたのですが、1853年に姉夫婦などの関係から氷見町の医者・宮崎南禎の養子となります。しかし、その後も色々あり元の家に戻ることになります。生まれて間もない時点で、既に色々な問題が起きていたようですね。

銭屋五兵衛へのあこがれ

医者の家に生まれましたので家業を継ぐことを勧められていましたが、浅野総一郎は商人を目指します。かなり反対されたそうですが、強い意志を持って押し切ったそうですね。

この時、胸には銭屋五兵衛への憧れがあったようです。銭屋五兵衛とは江戸時代後期に活躍した加賀の商人です。いつかは銭屋五兵衛のような大商人になりたいという夢を描き、医者の道には行かず商人への道を進みました。

銭屋五兵衛 画像

銭屋五兵衛 画像

事業を開始するも失敗

まずは越中・北陸で海産物の販売を始めましたが大失敗し、身内からは商売をやめるように説得されます。ですが、浅野総一郎は絶対に大商人になりたい想いがあったため諦めませんでした。この時にかなり対立をしてしまったのか離縁となってしまいます。

上京し水売りになる

浅野総一郎は23歳の春に上京し、今度は水売りとおでん屋を始めました。水売りとは冷たい水に砂糖を入れた飲み物を販売する商売です。この商売は原価があまりかからなかった為、着実にお金を増やしていき、お金が手元に残るようになりました。

竹の皮屋から薪炭商へ

浅野総一郎は、次に竹の皮に着目します。当時、竹の皮は味噌やお菓子を包むのに使われていたのです。その商売も軌道に乗り始め、次に注目したのが薪炭商です。薪炭商とは文字通り、薪や炭といった燃料のことですね。

よく働く女性と結婚するも…

1872年、サクという女性と結婚します。貸布団屋で働いていた女性で、よく働くことから目に止まり求婚したそうです。それ以来、共働きをして浅野総一郎は成功していきます。

しかしその3年後、1875年に火事が起きてしまい家が全焼。この時、現在価値で3億円ほどの損失をしてしまい大打撃を被ります。結婚して間もない家庭に襲った大きな損失は、かなり精神的に痛手があったことでしょう。それでも浅野総一郎は立上り、現在持っている事業で奮闘しました。

ガス会社との繋がりから成功へ

薪炭商を営む流れでガス会社との繋がりが生まれ、ガス会社が処分に困っていたコールタールなどを買い取ってセメントの燃料にする方法を開発し、セメント工場に納める事業により浅野総一郎は一気に資産を増やしました。

そして、セメントがこれから伸びていくことを浅野総一郎は浅野セメントという製造所を持ちます。

必死に働く浅野を見た渋沢栄一

浅野セメントを持つにあたって、日本の資本主義を作った投資家として有名な渋沢栄一の後ろ盾がありました。実は渋沢栄一は浅野総一郎の働きっぷりを見たことがあり、その頑張りように驚嘆して浅野総一郎と関わるようになっていたのです。

この渋沢栄一との出会いが、浅野総一郎の成功を推し進めていきました。渋沢栄一が色々と助言をしてくれたお陰で、浅野総一郎はしっかりとした経営をすることが出来たのです。

渋沢栄一 画像

渋沢栄一 画像

海外の発展ぶりに驚愕し行動する

浅野総一郎は1896年に海外視察に行き、そこで海外の湾岸開発の凄さを目の当たりにします。そして、日本の湾岸は開発が全然進んでいなかったので、浅野総一郎は大規模な湾岸、工場地帯を作ることを計画します。

この大規模計画には安田財閥の創設者である安田善次郎も支援に乗り出し、15年間をかけて完成させました。これをきっかけに安田善次郎とも絆が生まれ、強い人脈が築かれます。

世界大戦の特需で財閥創設へ

その後、浅野総一郎は数々の会社を設立して一気に大成功者になり、世界大戦の特需を受けて浅野財閥となります。世界大戦に必要なものを沢山作れる事業をしていたのが功を奏したのですね。下記画像は浅野造船所の1号船です。浅野造船所は現在、JFEエンジニアリングという会社になっています。

浅野造船所の1号船

浅野造船所の1号船

浅野総一郎の最後

財閥を作った後、ベルリンにて病気を発症。食道癌と急性肺炎により、1930年11月9日に亡くなりました。享年82歳です。

銅像は何か所かに建てられており、生まれ育った氷見市にも銅像があります。

浅野総一郎 銅像

浅野総一郎 銅像

浅野総一郎の名言

人は1日に3時間寝れば十分だ。

「人は1日に3時間寝れば十分だ。貴重な時間を空しく睡眠に費やすのは惜しい。」という名言を浅野総一郎は残しています。この言葉から、浅野総一郎がどれだけ必死に事業を取り組んできたかが伝わってきますよね。

渋沢栄一が驚くほどに浅野総一郎は働いており、薪炭商の頃も現場で真っ黒になりながら働いていたそうです。後の大成功者はとてつもない努力家だったのですね。

約束を厳守することが必要である。

「商売人はとくに約束を厳守することが必要である。時間を偽ったり、約束を破るような人はすぐ信用を失ってしまうのである。」という名言も残しています。

浅野総一郎は信用をとても大切にしており、約束を守る人でした。信用が仕事においてどれくらい重要なのかは人それぞれ考え方があるかもしれませんが、浅野総一郎の中では一番大切なものだったのでしょうね。

浅野総一郎の豆知識

孫はオリンピック選手

ここまで浅野総一郎の人生を見てきましたが、実は孫がオリンピック選手という豆知識があります。井上喜久子さんという乗馬の選手で、オリンピックには3回出場しています。

井上喜久子 画像

井上喜久子 画像

まとめ~浅野総一郎の人生~

今回の「浅野財閥の創設者・浅野総一郎の経歴・人生について」はいかがでしたでしょうか?

浅野総一郎は幾度か大失敗をしていますが、その度に立ち上がり、渋沢栄一が驚くほどの努力をして成功しました。中々真似出来るようなことではありませんが、何かにつまづいてしまったとき、努力をしなければいけない場面が来た時に、浅野総一郎の生き様を思い出したいですね。