幕末の三傑の一人・水野忠徳の経歴・人生について

幕末の傑物 水野忠徳
幕末の傑物 水野忠徳
偉人の人生

水野忠徳とは?

幕末を支えた実務官僚の一人

水野忠徳とは、幕末を支えた三傑「岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順」の一人です。この三人の幕臣により幕末外交は支えられたと言われており、とても優秀な武家官僚でした。

また、かなり頑固な交渉をしたことでも知られており、アメリカなどの外国外交官も相当困っただろうと言われています。

隠居後も裏で活動

水野忠徳は左遷を受けていますが、二度目の左遷を受けたあとに隠居をします。しかし、水野忠徳は大きな力を持っていたので、隠居しているにも関わらず登城しては政治に口を出していました。かなり強引だったようで、当時の同僚達を困らせることが多々ありました。

水野忠徳の経歴・人生

養子からの始まり

水野忠徳は1810年に生まれ、養子として水野家で育てられました。しかし水野家はとても貧しく、放蕩癖のある養父が借金を重ね、よく借金に悩まされた幼少期を過ごしたそうです。

抜擢され奉行として活躍

借金取りに悩まされながらも、水野忠徳は勉強に励み、21歳の頃に初出仕をします。出仕とは民間から官職につくという意味ですので、普通の家の出でしたが幕府に関わりを持つ人になれたということですね。

水野忠徳は勉強が出来るだけではない優秀さを持っており、その優秀さを見抜いた老中が抜擢。そのままどんどん活躍していき浦賀奉行となります。奉行とは江戸時代の武家の職名の一つで、幕府の命に応じて動く長官のことです。

長崎奉行へ

その後も活躍し、浦賀奉行から長崎奉行になった水野忠徳でしたが、その頃、黒船で有名なペリー来航がありました。しかしペリーは浦賀の方に行ってしまった為に、水野忠徳はペリーとの交渉には立ち会えず空振りとなりました。

ペリー 画像

ペリー 画像

プチャーチンとの交渉

ペリーとの交渉は出来なかったものの、続いてやってきたロシアのプチャーチンとの交渉に水野忠徳は立ち会います。この時交渉したのは川路聖謨(かわじとしあきら)という方で、水野忠徳はその補佐をし、日露交渉をします。

また、当時ロシアと敵対していたイギリスのスターリングは、プチャーチンを捕捉する為に艦隊を引き連れて日本に来ました。その際に行われた日英協約では水野忠則も調印をしています。

これらの活躍により水野忠徳は更に認められ、勘定奉行となりました。勘定奉行とは勘定方の最高責任者のことです。

プチャーチン 画像

プチャーチン 画像

ハリス・オールコックとの交渉

水野忠徳の活躍として有名なのがアメリカのハリスとイギリスのオールコックが手を組んだ米英連合との交渉です。この交渉では通貨の交換比率を交渉していたのですが、向こうの主張は1ドルを3分。対して日本の主張は1ドルを1分で、三倍もの開きがあったのです。(1両が4分にあたります)

海外としては円安の方が好ましい時代で、武器などを高く沢山売りたかったのですね。当時アメリカやイギリスといった列強はこのやり方で力を強めていたのですが、交渉に立ち会った水野忠徳だけは手強く、ハリス達はとても苦労しました。

タウンゼント・ハリス 画像

タウンゼント・ハリス 画像

左遷されてしまう

水野忠徳はハリスの要求をことごとく反対していたのですが、それによって浮いた存在となってしまいます。最終的に全権委員として調印をしますが、ハリスとオールコックからの印象は悪かったそうです。

因みに、交渉をしている間にもどんどん日本のお金は流出していたそうで、物価が3倍にインフレーションしてしまいました。この納得いかない状況の中、横浜でロシア人士官殺人事件が起き、部下に現場を任せようとしたところ職務怠慢と指摘されてしまって責任をとらされ、軍艦奉行として左遷されてしまいます。

幕府としては水野忠徳を邪魔者扱いしていましたが、結果的に幕府は交渉で大損。水野忠徳の主張は正しかったのですね。

小笠原島の開拓

左遷後、再び外国奉行となった水野忠徳には小笠原島開拓の命が出ます。この頃、小笠原島の開拓は幕府にとってとても大切で、海防上の理由から小笠原島を日本領として抑えておきたかったのです。因みに、この頃の小笠原島には外国人が住んでおり、日本領となっていませんでした。

この小笠原島に赴いた水野忠徳らは、住んでいた外国人住民に日本領であることを主張。争うことなく、穏便に納得してもらい、日本領となりました。

小笠原諸島 画像

小笠原諸島 画像

再び左遷、隠居するも活躍

再び外国奉行となった水野忠徳でしたが、弱腰の幕閣に反対し、再び箱館奉行に左遷されてしまい、辞任をして隠居します。ですが、水野忠徳は隠居しながらも城に赴いては政治に関わり続けました。

そして、武蔵布田宿に移住したのち病にかかり、59歳で憤死。最後の言葉は「今、出仕の命が参った。すぐ、登城の仕度をせよ」だったそうです。因みに憤死とは激しく怒るあまり死んでしまうことを指します。水野忠徳が強い信念を持って政治に関わっていたことがよく分かるエピソードですね。

まとめ~水野忠徳の人生~

今回の「幕末の三傑の一人・水野忠徳の経歴・人生について」はいかがでしたでしょうか?

頑固な性格から何度も左遷を受けてしまう水野忠徳でしたが、仕事の腕は高く、左遷されても返り咲き活躍をしていましたね。強い信念を持って政治に携わった姿を称え、今もファンは沢山います。逆らわずに上手く生きることも出来た中で、自分を曲げずに生き抜いた水野忠徳さんの生き様はとてもかっこいいものでした。